「絵ばかり描いていないで勉強しなさい」
一見よくある表現ですが、こんな言葉が子どもを追い詰めてしまっているかもしれません。
子どもの好きなこと、得意なこと、知っていますか?
不登校の子を見ていると、目につくのは親の無関心です。そう言うと、ほとんどの人が否定するでしよう。
「そんなことはない! 私は誰よりも子どものことを心配している!」
と。けれど、果たしてそれは本当でしょうか。あなたの関心や心配は子どもが学校に行くかいかないか、というただ一点ではないでしょうか。
ボクは「子どものことを心配している」という保護者にはこう尋ねます。
「何をそんなに心配しているのですか」
「子どもたちの将来が心配なんです」
一体、何が心配なのでしょうか。きちんと学校に行って大学に入り、就職すればいいのでしょうか。けれど、それで安心というわけにはいきません。次は結婚のことを心配するはずです。良いお嫁さんやお婿さんをもらったら、赤ちゃんのことを心配します。最終的には子どもの老後まで心配していくのでしょうか。
子どもたちが持って欲しい関心はあいまいで不確かな遠い未来のことでなく、「いま」です。
あなたは自分の子どもがどんなことが好きで、何が得意かを知っているでしょうか。それがわからなければ、どんなに子どものことを心配していても、結局は彼らにとっては無関心な親だと言えます。
大好きな「絵を描くこと」が交換条件になっていた
お預かりした生徒の中に「絵を描くことが好き」という子がいました。学校へは通えず、勉強も一切拒否、絵を描くことだけは黙々とやると事前に情報を頂いていました。ボクとしては彼が本当にそうしたいのなら、まずは好きなだけ絵を描いてもらおうと思いました。
初めて会った日に言ってみました。「絵を描きたければ、ここでずっと描いていていいよ」と。
ところが、彼は嬉しがるどころか、警戒の表情を浮かべました。目を合わせることもなく、なかなか絵を描こうともしませんでした。
後にわかったことですが、絵を描くことが大好きだった彼は何度も家庭で「絵ばかり描いていないで勉強しなさい」などと言われていたり、また「絵を描く」ことと「学校へ行くこと」や「勉強をすること」を同列にされたり、 あるいは交換条件にされたりもしていたようです。そうした習慣が「絵を描いていいよ」と言われても素直に描くことができない警戒心を次第に作り上げてしまっていたのでした。
自分が好きなことに対して家族が関心を持ってくれないということは辛く寂しいものです。そして、自分でもわからないうちに学校に行く気力もなくなっていきます。そのときになって初めて親は心配します。ただし、学校に行くことについてです。
せっかく「絵」という彼にとって大切なものがあったのに、家族はそれを認めることをせず、そのことに関して残念ながら無関心だったのです。
疲弊しきっていた彼の回復に必要だったのは、彼にとって(大人が想像している以上に)大切な「絵を描くこと」という行為。「続き」も「裏」も「交換条件」もなく、ただただ絵を描くことができる環境に身を置いて過ごした彼は、その後、少しずつ勉強にも取り組み始め、きちんと自分の意志で進学をすることができました。
子どもの「いま」を見ると、信じる気持ちが増す
しっかりと子どもの本当の姿を見ていると、隠れた才能も見えてくるはずです。それは、絵が上手であったり、スポーツが得意であったり、動物が好きなことであったり、心がやさしいことだったりとさまざまです。それがわかれば、子どものことを信じる気持ちが増してきます。
(本記事は、REO代表 阿部伸一著 『「不登校」は天才の卵』から一部抜粋・改変したものです)